歯科医学の歴史

歯科医学の進歩

 エジブトには、紀元前五世紀頃、歯科専門医がいたが、これ以前、紀元前2500年頃のものと推定される義歯らしきものがギザの墓場から発掘されている。現存する世界最古の補綴物である。また、エジプトでは、ミイラの顎にエメラルドで作られた人工の歯が埋められているのが発見されている。これは、死後も食事が差し支えなく行えるようにとしてなされたものである。アメンホテプ3世の母親(実母ではない)ツヤは、歯周病だった。当時の身分の高い者は、柔らかい食物を食べていたため、歯周病になることが多かった。治療として細い金線でゆるんだ歯を縛って動かないようにしていた(今日でも歯周病の治療で同じような処置をすることがあります。)。また、シリアの地中海に面した一帯の海岸地方に栄えたフェニキアの古墳で、推定紀元前400年頃の婦人のものらしい上顎前歯部の補綴物を発見した。さらに、ギリシア文化の中心地アツチカから、推定・紀元前1200年頃と思われる金線を補助的に金の帯で維持した補綴物が出土し、これらに類した補綴物は、イタリアのアペニン山脈にまたがるエトルリアのトスカナ地方のエトルリア人によつてもつくられていた。タルクイナの古墓から牡牛の歯を利用してつくった義歯や、エトルリア人の墓から発掘された二枚の金のバンドを使い歯をはさみ込んで両端を溶接したものが出土している。このように、現在のブリッジ様の補綴物は、かなり古い時代からつくられていた。欠損部を隣在歯や近接歯牙に固定する技術は、ヒポクラテスによっても紹介されている。
 古代中東地域では、歯を失った貴族や王族は奴隷などの歯を抜いて、自分の顎の骨に移植したことも報告されている。これは、現在の歯牙他家移植とおなじものである。
 一方、中南米のボリビヤでは、1500年くらい前に貝殻で作られた人工の歯を下顎に埋め、術後も長期に生存機能した例がミイラから確認している。これは、今日のインプラントに通じるものです。また、アラビアの外科医アブルカシスは、歯牙の欠損による空隙に牡牛の骨でつくった人工歯を両隣在歯に結さつする義歯を発表している。
 紀元前から高度の文明が開け、高度な文化をもっていたインドでは、義歯に類するものが発見されていないし、記録も見あたらない。日本の医学のルーツである中国の義歯については、宋、明の時代(960〜1400年)には、義歯に類するものがあったようである。韓国では、十二世紀の半ばから十三世紀頃、歯科補綴術の入れ歯のことを「種歯」といい、入れ歯することを「歯種」といった。中国、韓国においては、儒教的思想により入歯をすることが忌避すべきこと、極めて卑しいことで、入れ歯などは下級階級出身者がするものとして認識されていた。もし、高貴な人々も入れ歯をしていたならば、これらの人々の古墳、墓場から出土しても不思議はないはずである。
 中世ヨ−ロッパでは、歯周病でグラグラになってしまった歯を、細い金線で隣在する歯と結び併せて固定することも行われている。同様なことは、今日でも歯周病の処置として行われている。
 実用とほど遠かった十九世紀以前のヨ−ロッパの義歯
17世紀の日本には現代の義歯とほぽ同じ形態で咬合によって粘膜に接着(吸着)する、また、ある程度審美的な佛姫の使用した実用的な木床総義歯があったのである。
 西洋歯科医学では、このような、総義歯の維持法(接着)の理論が発表され実用化されたのは1800年以後である。アメリカのガルデツ(1756〜83年)によって金属板応用の有床義歯がつくられてからである。この義歯維持法(接着)の利用は日本においては260余年早かったことになる。

日本最古の現存の義歯は木床一木造り

 さて、日本では宮崎県の墓からロウ石製の二歯を彫刻したもの、また富山県の畑の中から四歯を彫刻したロウ石製の義歯が発掘された。この付近には弥生式土器の破片があつたので弥生期のものらしいと推定される。このロウ石製の義歯から、日本の義歯の歴吏も大変古いことが知れる。この他、日本に現存する最も古い義歯は、和歌山市成願寺の尼僧(1538年没)の木床一木造りの上顎義歯である。また、大阪の羽間弥次衛浄心(1673年没)、柳生飛騨守宗冬(1673年没)などの使用した上下顎総義歯など使用者の名の知られているものだけで十数個あり、使用者不明のものを入れると200個ぐらい現存している。これらの特徴は、ロウ石製のものもあるが、ほとんどの材料が木材(ツゲ)であること。その形態と機能“現代の総義歯とほとんど同じで、実用性のあること、さらに義歯の維持が粘膜への接着(吸着)にあることである。補助的に義歯の内側に綿や紙を入れ吸着をよくしたり痛みを抑えることもなされていた。

木床義歯製作のル-ツは、仏師の手慰みから始まつたといわれている。仏像彫刻の注文が少なくなり、仏師は逆に義歯をつくることで生活の糧としたのではないかといわれている。さらに、義歯をつくることを専門とする集団ができ、彼らを口中入歯師と称するようになった。また、彼らの中には義歯をつくるかたわら抜歯や口中の治療もする者がでてきた。これらの者を歯医者と称した。従来の口中科、口中医は、一般医学を修得し、口腔疾患、咽喉疾患を中心に、抜歯も行ったが義歯をつくることはなかった。
 口中入れ歯師が口中医と全く違うところは、医学的専門教育を全く受けていない点である。彼らは義歯製作専門技術の修得を中心とし、その養成は技術を習い・師弟というより親分子分の関係にあつた。これらの組織は香具師(てきや・やし)に属していた。彼らが台頭し始めたのは室町末期から江戸初期で、江戸中期頃には広く全国に散って営業し、口中医にかかれない民衆に親しまれた大衆的口中治療者でもあった。西欧でも同様で抜歯を見せ物とする大道芸人がいた。今日でも中華民国(台湾)の街角では歯科医と牙医の看板が見られる。 

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